荒廃した都市に駐禁の風が吹く

神社の脇を通る裏道に立ち尽くしていた。
路駐していたバイクに黄色い紙が貼りつけてあるのを目にし、思考が停止してしまったのだ。
今年に入って駐禁を取られたのは四度目。腹が立つというよりも、行き場のない虚しさが訪れる。

この無限に広がる宇宙においては、駐禁など取るに足らないものなのだ。
砂漠における一粒の砂、微塵でなんの意味はない。とスケールを大きくして考えてみたが、そんなんで気が晴れる訳ないやろ!

フルスロットルで国道を駆け抜けたかったが、速度超過で捕まるのも嫌だし事故ったら痛そうだし、法定速度で暗鬱と呪いの言葉をまき散らしながら帰途についたのであった。

それにしても駐禁の監視員はなぜ皆あんなに陰鬱な顔をしているのだろう。
自分たちのしていることがどこか後ろ暗いことである、ということを分かっているからなのか。
だとしたら、そんなに頑張らなくていいんだよ。
ありのままのあなたでいて欲しい。
緑の制服など脱ぎ捨てて(自分たちはクリーンなんだ、ということを表明するために制服が緑なのだろうか。クリーン&グリーン。と想像するだけでよけい腹が立つ)海岸線を駆け抜けないかい?
すべてのしがらみを振り捨てて、ここではないどこかに突き進むのだ。

でもいつかは帰ってこなければならない。すべてを捨てたツケは払わなければならない。

金も住むところも無い人間は、犯罪などの堕落に陥りやすい。
そんなのは嫌だから、やはりあなたは人を取り締まる側でい続けるのだろうか。
あなたがその道を進むなら、僕は何も持たず取り締まられる側でい続ける。
目指す所は同じでも、ただそれに至る道が違うのだ。

と、幼馴染が善と悪に分かれてそれぞれの正義のために葛藤しながら戦う、物語でよくありそうなシチュエーションを思い浮かべたが、、そんなんで気が晴れる訳ないやろ!

ひたすら、その違反金を払わなければ出来た事をねちねちと考えつづける。小粋なアイテムを雑貨屋で買い、帰りにちょっと一杯ひっかけてもお釣りは来る。
そう考え続けるのも気が鬱屈としてくるので、駅前の飲み屋に入り痛飲して、どんどんと貧窮のスパイラルに陥るのであった。

荒廃した都市に風が吹き荒れる。入り組んだ建物に身を引き裂かれた風は、駐禁、駐禁、と叫び声をあげる。

てかさあ、そもそもちゃんと駐輪場に停めておけばよかったんちゃうん?
あほか、酒がまずくなるからそれ以上言いなさんな、





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# by shiitakesentaku | 2018-04-22 08:41 | 2018年4月

しおりについて

本のしおりがないからといって、熱々のステーキを読みかけのページに挟む者はいない。
本が汚れてしまうからだ。

しおりというものが家になく、いままでは、レシート、名刺、ティッシュ、綿棒、などで代用していたが、ページをめくるたびにその品々のくたびれた表情が目に付いて「どうせ私は次の女の繋ぎなんでしょ」みたいな荒廃した雰囲気を醸し出してくる。僕はそこはかとない罪悪感をおぼえ、そのレシートなり綿棒なりを本からそっと抜き取り、目に付かない所に追いやるのであった。

見えなくなったから良いのか、と見えないからこそ逆に気になってくる。
机の下や引き出しの影から「本妻は(本だけに)一身に愛情を浴びて良いご身分ですね」と無言のプレッシャーが漂ってくる。落ち着かない。

その名刺なりレシートなりは、しおりとして徴用されるまでは、名刺入れや財布などそれぞれが持つ役割としての故郷を持っていた。
それがしおりっぽいからといって説明も無しに無理やり引きずりだされて来た。いわば植民地における列強サイドの略奪にも等しい行為であった。

そんな自分勝手でいいのか、自分。
と思い立った私は雑貨屋、小道具屋を目指し、しおりを探す旅に出たのであった。

そもそもしおりって、なんかわざわざ買わないよね、メインというよりもサブキャラっぽいし、そのために貴重な金銭を費やすのもちょっとなぁ、って言うかしおりって、なんやん。

薄っぺらいっていうのが最低条件やけど、手元にCD-Rがあったとしても挟まないよね。傷つくと嫌やし。レシート挟んでも、ファンタジーな物語の続き読もうってなって、レシートの文面に「もやし25円」とか目に付いちゃうと興ざめせえへん?
案外めんどくさいよね、しおり、何様のつもりやねん、うっすい顔して腹の底では俺より身分が上って思ってんねんで、こすい奴やなぁ、

わざわざ薄いの探そうって気を使うのも癪やから、いっそぶ厚いやつにしてまう?
広辞苑をガムテープでぐるぐる巻きにして、文庫本の隙間にぶち込むねん。
しおり最厚、ギネスに挑戦、ってなもんやで。

広辞苑の塊に、蛭のようにへばりつく、読みかけの文庫。
あぁわびしい、荒野に風が吹きすさぶ。
 
しおりって、なんやねん。
そう何日も悩んだあげく、ふと入ったアンティーク屋でトランプを購入致しました。

目のうつろなキングが、こん棒を掲げている絵面です。
もう何人かはやってきた、というツラ構えです。

トランプはそれ自体で自立しているから、良い距離感と関係を築けそうです。
しおりとしての役割を、お願いしても良いでしょうか。

何日かのしおりを巡る煩悶にも、終止符が打たれようとしている。

私たちの旅ももう終わり?
なんかさびしくない?
てか、なんやねん、自分、?



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# by shiitakesentaku | 2018-04-09 23:34 | 2018年4月

爆砕する夕景

用事で日暮里まで行く。その道すがらに「東京初空襲の地碑」というのが地図上にたまたま表示され、興味を引かれたので行って見ることにした。
当時そこは工場地帯で、その軍事的な施設を狙ったのでは、といったような説明がなされていた。
荒川沿いの地域で、さびれたような印象。川沿いの地域に来ると、錆びたトタンが風に揺られてカタカタ鳴っているようなイメージを思い浮かべます。なんとも、わびしい。

空襲の地碑、というからには地蔵のようなモニュメントでも建っているのではと予想していたのだが、さにあらず。
区が立てた観光案内のごとく、ペラっとした説明板がそこにあるだけだった。しかもその地に建つ幼稚園の外柵に寄り掛かるようにして立っている。
それを読んでいると、まるで園内をのぞき見しているような恰好になる。
何を思ってこんな配置にしたのだ。

ちょうど夕方の送り迎えの時間で、関係者が2、3メートルの距離で不審な目で僕を見やる。
気まずくなり立ち去ろうとすると、、若い男が自分の方めがけて走ってくる。

いえ、私は、不審者ではありません!

と荒川にかかる橋に続く階段を駆け足で上り振り返ると、ただのジョギングしている男だった。

どこまで行っても自分は自意識過剰なのだ。
結局自分のことしか考えていない。

広々と続く荒川と街の遠景。夕陽がもやに霞んでいる。

呆然と立ち尽くし、かと言って他の歩行者に「入水しようとしている男」と思われないように、あたかも夕陽に見とれている風を装い、どこまで行っても自意識しかなかったのだ、
むなしいし、わびしいわ。むなしい、しわ、びしいわ。 しわ、びわ、

ふと見上げた空に、何かの予言のように飛行機が横切っていく。
その時、時間は連続することをやめ、過去と現在が混在していく。

機影はその数を増やし、驟雨のごとく火の玉を降らす。
くだらない自意識もそれを形作る肉体も、ことごとく爆砕して、地に還ることなく因業の大気をのたうちまわる。

私にとっては「無名」のその地で散った人たちに、その時私は、なったのだった





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# by shiitakesentaku | 2018-03-24 12:12 | 2018年3月

さよならだけが?

「さよならだけが人生だ」という言葉が嘘くさいのは、当人は「出会い」といううま味をちゃっかり味わっておきながら、その事は棚に上げて、ねちねち別れの事だけフューチャーして、俺ってナイーヴでしょ?分かってね? みたいな女々しい下心が見えるからです。

と、そのように思っていたのですが、元々「さよならだけが人生だ」の言葉は漢詩から来てて、本来の意味も微妙に違うみたいですね。

分かりやすいキャッチ-な語にパッと飛びついて感情的になって、僕は釣り堀の中の愚鈍な魚か!
と思った次第ですが、そのようなメカニズムは他の多くの場にも見いだせるのではないでしょうか。
ネット上の炎上や、ワイドショーのトピック、隣人の噂話、等々、

私は他人から文脈で理解されたい(見た目だけや、私の内面の一部だけでなく、私というものの流れの総体として理解されたい)と思っているくせに、他人には部分的にしか理解しようとしないという閉鎖的な思考。

まあそんな矛盾する状況は日々よく訪れるので、つい何かに囚われ感情的になったりする時、心の中で「おさかなさん、楽しそう、、」と釣り堀の中にいる自分を想像しながらつぶやいてみるだけでも、自分の愚行が馬鹿らしくなって、立ち止まることができるかもしれん。
前に前にという人間のポジティブさも尊いが、立ち止まってみる、ということもそれ以上に豊か。
たとえそれが、立ち往生だったとしても。






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# by shiitakesentaku | 2018-01-13 08:39 | 2018年1月

新年2

真の大吉を引くものは、世界中のラッキーカラーが自身に集結するがゆえに黒く塗りつぶされてしまうだろう。

今年の初詣は富岡八幡宮に行ってきました。
昨年あった事件の影響で、境内に人はまばら。

神事も狂気も日常からはみ出しているという点で近しいものがあります。
境内の屋台で、その非日常をさらに潤滑よく進めるため人々は酒を飲んでいる。
上気した顔、顔、顔。

聖も俗も人間が勝手に決めたもので、しかしそのような事を決めておかないとやっていけない人間のこころもとなさ。空は何事もなく澄み渡っている。
希望も絶望もないまぜにして、無言の叫びが澄み渡った空にこだまする。
空は一つの鏡であり、人間の嘘っぱちを告発もすれば、明るい未来を反映したりもするのだ。

おみくじを引くと、吉。なんとも当たり障りがなくつまらない。
おみくじなんかにはっきりした答えなど求めていないので、もっとよく分からない目が出てもいいのにね。

吉と凶の合い盛り御膳。ららぽーと大殺界。運勢民営化。おもいやりの吉。おもいやりの凶。決断の末吉。記憶を失くした、大凶、、







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# by shiitakesentaku | 2018-01-07 12:44 | 2018年1月

新年

夜したたか飲んで、朝、誰よりも早く起きる。一人で山に登り日の出を見る。

朝は誰にも邪魔されない絶対時間だ。

削る前のカツオ節のような黒い雲が空をゆっくりと流れ、朝日を浴びている。
カルビを炭火で炙るような感じで、じっと朝日を浴びている。(ちなみに比喩に食べ物が多いのは年末年始、食べて飲んでばかりいるからです)

先行のカツオ節を追いかけるように、ポップコーン状の雲が押し寄せてくる。そしてそれらがまた容赦なくことごとく朝日に炙られていく。
朝から食べ放題のごとく、胸やけで苦しい三が日。

雲々はゆったりと空を流れながらその実、護送している、これからの一日のダイジェストを。
飛行船が広告を空にスクロールしていく、そのやり方で。

今日も一日が始まる。
何でも起こりうるし、何ものも起こらない。
ゆっくりと激しく新年が始まっていく。



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# by shiitakesentaku | 2018-01-02 07:12 | 2018年1月

未来の行く末について色々と考え、煩悶とする朝。

駅前、坂道の上の方から通勤する人たちが、水揚げされた魚介類のようにとめどなく流れてくる。
それに逆らい駅に向かう。
ふと空を見上げた、その瞬間に周囲の喧騒は消え、水しぶきの印象だけが辺りにただよう。

見上げる空は雲一つなく澄んでいて、朝の冷気をひっそりとその身にたたえている。
朝の空は、いつだって始まりであり、いつだって初めてなのだ。
静謐で清楚、その気品はどんな意味の手垢も寄せ付けない。

それは本当に助かる。
意味がないのだ。
そうすべてには意味がない。
あるとしても、それはただの便宜上のことに過ぎないのだ。

名も知らぬ人たちと、一様に電車で運ばれながら、思った以上に自分は、自由だった。













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# by shiitakesentaku | 2017-12-16 12:11 | 2017年12月

どどど

先日、森美術館へ「ドラえもん展」を見にいった。
日曜の夕方にも関わらず、受付にはかなりの行列が出来ていた。
行列に並ぶのは嫌いなので、美術鑑賞などはやめにしてその辺の赤ちょうちんで熱燗をくいっと飲んでやろう、という誘惑と葛藤していると、すぐ後ろに並んでいた若いカップルの男のほうが「こんなに並んでるけど、いったいどんな人が並んでるんだろね。ははは。」としゃべり出した。

お前だよ!
   
まぁ僕もだけど、

そして男は僕の方をチラッと横目で見た。
さえない男が、楽しそうなカップルや観光客の中にあって、さえない顔をして一人でたたずんでいるのが視界に入ったであろう。

なぜだか猛烈に恥ずかしくなってきた。

そこで、彼の現実世界で俺って超満たされてるよねぇ感に、僕は直面し戦うことを選ばずしてあろうことか、直前に並んだ二人の女と距離を近くして、あたかもそのグループの一員なのだ私は、という状況を演出しだした。

なんとも卑俗で自意識がねじ曲がっている。
一歩間違えれば変質者である。

阿呆なカップルの男よりも浅薄である、ということを自らで実践、実証してしまっている。
さびれた郊外のショッピングセンターで、見向きもしないまばらな老人たちの前で、自分でもよくわからない28徳ナイフの実演販売をしている、それは私だ。

思考の中における熱燗の質量はますます増して、山里の温泉郷のごとく、ただ浸ってすべてから解放されたい。

しかしここまで並んだのに列から外れるのももったいない気がして、陰気な森の陰気なおともだちのごとく小さくなりながら、人の流れに身をまかせていたのであった。


人混みの中にあって、架空の荒涼とした地平の彼方から青い猫型ロボットがやってくる。
胸に七つの傷がある。きっと彼は幾多の修羅場を乗り越えてきたのだ。

さあ君、これを使うんだ。自己複製機。
君は一人じゃないよ。

彼はいいやつだ。どんどん僕の分身を作ってくれる。

その数は行列を圧倒し、やがては地球の総人口を上回るだろう。
個と集団の境界をぶちやぶり、どこに行っても、どこに行っても僕がいるのである。

そのうんざりするほど繰り返される僕の中で、それだからこそ僕はどこに行っても、一人なのであった。















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# by shiitakesentaku | 2017-11-25 13:00 | 2017年11月

伊豆へ

先日時間があったので、バイクで伊豆半島を一周してきました。

まず気になった伊東市にある大室山に立ち寄る。
この山は、お椀をうつぶせに置いたような、こんもりとした珍妙な形で、山頂までロープウェイに乗って到達できる。

山頂では、このかつての火山の縁をぐるりと一周することが出来るが、そこから下った噴火口のところに何故かアーチェリー場があって、色々考えてしまう。
こんな所でも金儲けがしたいのか、いや、この圧倒的な自然の力強さの中で、アーチェリーのように人間がコントロール出来る一つの法則を置いておいて、感覚のバランスを保とうとしているのか、等々。

そのことがずっと引っかかっていたので、家に帰って語源の辞書をめくってみると、「室」という漢字は、弓矢を射って、その落ちたところに祖先を祀る霊廟を建てる、という形からなっており、なるほどと思った。

大昔の壮絶な噴火、それは大地からほとばしる激烈な弓矢で、それに射られた場所に山が出来た。
そこでアーチェリーをするのは、気軽にその土地の神様を祀る行為なのだ、と。

山頂をぐるりすると、なにか人の業を表している気がした。人は回り続けるのだ、それも徒歩で!
噴火口を挟んで反対側の縁に、小さく見える人が連なって歩いている様は、シルクロードを行くキャラバンのようにも見える。
そしてあちらから見ると、僕もその遠景のキャラバンの一つなのであろう。ああ、因果、

下山すると、近くにある「まぼろし博覧会」へ。
ここは秘宝館のような、あやしい博物館で、駐車場の前で、ビキニを着て綾波レイのような髪型をしたおっちゃんが旗を振って客引きしている。
なかなか人を選ぶ施設である。

展示内容は、昔のポップな文化をマネキンやグッズで再現しているもので、「風姿花伝」という世阿弥の言葉を思い出した。
人は風のように生きては死に流れていくものだけど、その時々に変わらず花は咲く、といったほどの意味で、いつの時代にも華やかな流行や魅力的な人・物は存在する。

そのようなものへの愛着が、いつまでも花を咲かせたまま存在させ続けよう、と圧倒的な物量で具現化しているところに、とても感嘆しました。

その後、雲見温泉にある烏帽子山に登る。
巨大な岩の上に建った神社で、その景色は圧巻でした。
もののけ姫のだいだらぼっちの上に乗っているような気分で、見下ろす家々に巨大な岩の影が映り、ひき潰しちまえ!といった気分にもなります。
ただ山頂までかなり急な道を40分ほど登らないといけないので、かなり体力を削られます。

この神社は烏帽子山である、いわながのひめのみことを祀っていて、彼女の妹は富士山である、このはなさくやひめのみことであります。
綺麗な妹と違って容姿が醜い姉で、ににぎのみことに二人とも嫁に差し出されたのに、姉だけ帰されて、しかもすでに子供を宿していた、という事を知って、神様、やることやってんじゃんかよぉ、となんとも煮え切らない気持ちになりました。

帰り際に日帰り温泉に入ろうとしたのですが、メジャーどころは人が多いに違いない、とマイナーそうな温泉に入ったのが、それが、間違いでした。

入口では大学生の30名ほどのグループがバーベキューやらなんやらで、ロビーまで騒然としていて、宿の者がどこにも見当たらない。
ようやく、ウォーリーを探せのような感覚で、宿のおばちゃんを見つけたのですが、まったく反応の鈍い感じで、あぁ風呂に入るの、とそっけない調子。
そこで僕はひるんでしまった。まるで歓迎されていない感じで、行く先の不穏な未来を感じ取ってしまったからだ。
かといってもう陽も暮れ始めていて、他の日帰り温泉を探していたら暗くなって帰り道が心細い、ということで決断してその風呂に入ることにした。

風呂場の扉を開く、そこはよくある民宿のような広さの大浴場で、外に出るドアーが奥に付いている。すなわち、露天風呂があるのだ。
さっそく外にでて、海も近いのでオーシャンビューとしゃれこもうじゃないか、と期待に胸を膨らませていると、、、そこから見えるのは、直近の民家のベランダであり、洗濯物であった。

露天風呂であることが、開放感をもたらし、温泉との相乗効果でさらなる癒しをもたらす、といったことは微塵もなく、その開放感が、逆に利用者の首を絞めている、というシステムであった。
えぇい、重要なのは温泉だ、とふっ切れて温泉に勢いよく足を突っ込むと、つるん。
と、盛大にずっこけてしまった。
浴槽の床が、掃除をされていないせいでコケが生えて、ヌルヌルとしていたのだった。
ずばん、と温泉にぶっ倒れ、アクアリウムのようにコケはプカプカと水面を漂う。

私はそっと目を閉じて、彼方まで広がる雄大な太平洋を想像した。
人間には想像力がある、それは人にとって大いなる希望なのだ。

刻一刻と陽は暮れていく。
ここからの帰り道は、まだまだ遠い。

せめても、せめてもこの瞬間だけは、現実を逃避させてくれないか、







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# by shiitakesentaku | 2017-08-11 14:51 | 2017年8月

連綿と続く生命のあり方は、フランチャイズ。それに伴うロイヤリティは死というものでありましょうか。

色んな人がいるけれど、それぞれの人が人としての機能を備えているのがなんとなく不思議で、店舗は違うけれど店の作りが同じコンビニのチェーン店を想像してしまいます。
各店舗のちょっとした工夫はあるけれど、規格が同じである。

そうやって私も人間をやっているけれど、フランチャイズで言うところのロイヤリティはお金で払うのではなく、自らの生命を少しづつ払っていく、すなわち死を積み立てていくのだと思います。

生まれたときからロイヤリティを払い続けている、すなわち死を抱えている。
その両者の引き合いのバランスで人が成り立つのであるなら、生と死それ自体は悲哀でも滑稽でもない。

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# by shiitakesentaku | 2017-08-05 14:54 | 2017年8月