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オールシーズン花火

連日、二日酔いに苦しんでいる。
聖火リレーのように酒の火種を絶やさないようにしているのか。
参加者一人の無為の競技である。

そんな朝はやたらに独り言が多くなる。
ひとりごとは点呼のようなものだ。
自分の内面にいる様々な者の所在を確認していく作業。
そうせざるを得ないほど、心が不安定になっているのかもしれない。

または声に出すことによってリズムを付けてノリやすくする作用もある。
目に見えない思考だけではちょっと不安なので、実際に耳で聞こえるものがあった方が安心出来るとも言える。

独りの、言葉。

三浦さんは「対話など不可能だ。人の間にあるのは独白だけだ」みたいなことを言っていた。
どこかで聞いた言葉で「良いカップルは自分の言いたい事をただ言い合える関係」というのもある。

会話のキャッチボール、というのがちょっと苦手だ。
ボールみたいに同じものを投げ合うのであればキャッチボールも成立するが、会話において相手に投げるものは、その軌道上で変幻自在に変わる言葉であり、体のどこに到達するかもわからない。
人と話をしている時にたまに不安になる。

暗闇で何も見えない中、だいたいの見当をつけて相手にボールを投げているような感覚。
戦時中にあった回天という人間魚雷に乗っているようで、モニターもない機内に入り、敵がいると思われる予測地点まで進行して自爆するのだ。

実際目の前にいる人に、セル画を重ねるように架空の世界が二重写しになる。
輪郭がブレる、世界のバグにはまりこんでしまった。
……
気が付けば自分はマウンドに立っていた。
誰もいないのに、人の気配だけはする。
目の前がかすみ地面がぐらつく、でも投げなければならない、何を、誰に、、そして、なぜ?
……

キャッチボールではないのだ、独り言だ。でもただの独り言ではない。
相手の心の中に、特定の音に反応して鳴る音叉のようなものがあり、それを響かせて会話を繋いでいく。
相手に届けるのではなく、相手の中から顔を言葉が立ち上がってくるのだ。

もはや投げるのを放棄して、でっかい花火でも打ち上げちゃう?

それをただ黙って眺めるなんてオツじゃないですか。





# by shiitakesentaku | 2020-12-28 00:00 | 2020年12月

煩悶な朝

二日酔いの朝はなんともやり切れない。

快適になるために酒を飲むはずなのに、その代償に気分の悪さを抱えるなんて馬鹿げている。
だったら飲まなければ良いではないか、というとそうも行かない。

良い悪いの判断基準はその場その場で変わってしまうからで、夜になると朝の絶望を忘れて、またアンデッドのように街を徘徊して酒を求めてしまうのだ。
楽しさから、または寂しさから。


「平和とは、潜勢的な力が黙々と邪悪なものに対して収め続ける継続した勝利のことである」と、とある人は言った。

平和とは、ぬるーくなんとなくそこにあるものではなく、常に誰かが戦い続けて勝ち取ってきたものなのだ。幾億の名も無き人と、幾人の著名な人をひっくるめて。

歴史的にもそうだし、個人の体についてもそれは言えそうだ。
健康(平和)は常に自分の体の様々な器官が戦い続けて勝ち取っているものなのだ、と。

見えないものの恩恵を常に受けている。
平穏な状態は当たり前ではないと思い続ける想像力が必要で、それを無くしてしまうと横柄な人間になってしまう。

などと考えてみて、新宅よ、お前は一夜の気晴らしを求めて酒に飲まれるべきではないのではないか。

自分をコインのように切り崩してギャンブル台に乗せ、誰のためにもならない賭けをする。
過度に酔うことは、自分の体の健康さを頼りに、何が出るか分からないおみくじを振り続ける行為だ。
振りかざす手が隣に座る客にぶつかり迷惑をかけることも多々ある。

では量を飲まず程々に抑えればいいじゃないか、という説も出てくるがそれは酔っていない時の思考で、一度飲み始めると酔っぱらいの思考になってしまい、ルールが変わってしまう。
一度アクセルをふかすと、疾走の気持ちよさにブレーキを忘れてしまうのだ。

かと言って宗教家のように欲望を断ち、洞穴に籠ることも出来ない。
まあWi-Fi完備でフリードリンク、書架に本と漫画がずらりと並んでいるような洞穴があったとしたら籠ることが出来るかもしれんけどね。
てかそれって漫喫やん!

結局酔うということは、自分をあえて不安定な状況に追いやることによりバランスを取ろうとする行為なのかもしれない。
ストレスを発散するために、体をどんどん窮地に追いやっていく。

平和を求めて、というよりは平和を支える見えない力に頼って自分を投げ入れる状態。
なので飲みすぎると受け身になる、ただの逃避になっていく。
そうしてどこまでも、逃げ切ることは出来るのだろうか。

本当に逃れたい「自分」と言うものは影のようにどこまでも付いてくるだろう。
地の果てまでも。
そして円周をぐるりと一周して、結局どこにも行き着いていないことに気付くだろう。

過度な飲酒も、想像力の欠如がなせるワザなのだ。



# by shiitakesentaku | 2020-12-25 06:48 | 2020年12月

旅する顔面

顔はめパネル、というものがある。

観光地などで見かける、その土地の名所・旧跡が描かれた板で、描かれた人物の顔面部分がくり抜かれていて、顔をそこに当てはめるだけで観光をアピールした写真が撮れるというものだ。

それを真横から見ると、カレイとかヒラメみたいな海洋生物を思い出させる。
体は3次元なのに、無理くり2次元にしてひらひらしている所がなんとも微笑ましい。

無個性な味の観光饅頭と同じような、そのものの良さで勝負するというよりは、あくまで周りにふりまく愛想笑いのような存在だ。
これはインスタ映え、とか言われるものにも共通している。

良き体験、それが第一であるはずなのに、その写真を撮って周りに見せびらかすのが当たり前になって、もはや周囲に開示・拡散する前提で体験をするようになる。そして体裁だけを気にしていく。それは本末転倒ではないのか。

虚ろな穴に顔をはめて、顔面が世界を旅する世界。
顔面は各地を飛来して、にやにや笑いをふりまいていく。

遍在する顔面。

そこになんの実質、充実感もない。
何も描かれていないパネルの裏側で、取り残された体が所在なさげにぶらぶらしているだけだ。

でも、そんな存在も人間らしくて阿呆らしくて好きなんやけどね。


〜〜 顔はめパネルに取り憑かれた少年の話し 〜〜

取り壊し予定の屋上遊園地。
古今東西のキャラクターからモンタージュされ作成された、ロイヤリティフリーのネズミ桃太郎のパネルが置いてある。
男はなんとはなしに本来とは逆の、表面側から顔をはめてみた。
すると眼前にはかつての賑わいの遊園地が広がっていた。
両親とはぐれてしまった少年の姿が見える。その顔に見覚えがある。人混みに紛れてしまう。行かないで。行かないで。追いかけようとしてパネルは顔面に食い込み、抜けなくなってしまった。見上げても振り返っても、かつての風景が広がっている。とうもろこし畑のように広がる大人の繁み。行かないで、行かないで、、

もはやその屋上遊園地は取り壊されてしまったので、そのパネルの事も男のことも誰も知らない。






# by shiitakesentaku | 2020-12-20 09:54 | 2020年12月

執念深いやつ

引き続きキムギドクの映画週間。

「弓」
独り身の老人が少女を船に拉致して10年後、17歳になったら結婚しようとするクレイジーなあらすじやけど、映像とか音楽がまったりとしてて、表向きは大自然で素朴な暮らしを送る親子のヒューマンドラマみたいな感じに見えるのが逆に、秘められた狂気というか、執念深い変態みたいな感じがしてめっちゃおもろい。
カルト教団が人里離れた山奥でオーガニックな生活するような趣がある。

やがて外部から来た男によってその生活の異常さは明るみになり、破綻する。
老人は海に身投げして少女は純潔を守られた。かに見えたが残された少女は一人、なぜか身もだえして下腹部は血の赤に染まってしまう。
亡霊となった老人が少女を犯してしまったのか?いや、違う。
見ている視聴者が少女を犯したのだ。
それは残酷な視姦の状態なのだ。
傍観の好奇の安全圏の。

おだやかな映像の流れの中に激しく刺すような批判のまなざしがある。


# by shiitakesentaku | 2020-12-19 23:04 | 2020年12月

コロコロしたやつ

キム・ギドクがコロナで亡くなったとのことで、DVDを借りてプチキム・ギドクフェス。

「ワニ」
やたら乱暴なホームレスの男が主人公で、暴力シーンとかって過激でインパクトをもたらすけれど、なんとなく時間を稼ぐためにやってるのかな?と(別にそんな意図はないとしても)思っちゃいます。
暴力の痛みは直感的に見て感じ取れるけど、反射神経に訴えかけるスポーツ的な感じもする。

その男の性格は野蛮で粗野。
だからこそ美に近づく瞬間がある。
荒くれ者は世間の枠組みを気にせず、壁をぶち壊して進むから。
そこで出合い頭の事故のような、突然の輝く瞬間があるのだ。
 
粗野は美に近づく。

しかしそれは所詮事故のようなもので積み上がる事もなく、命をぶっ叩いて火花を散らす鍛鉄のようなものだ。

その向かう先は死である。




# by shiitakesentaku | 2020-12-16 08:09 | 2020年12月