さよならだけが?

「さよならだけが人生だ」という言葉が嘘くさいのは、当人は「出会い」といううま味をちゃっかり味わっておきながら、その事は棚に上げて、ねちねち別れの事だけフューチャーして、俺ってナイーヴでしょ?分かってね? みたいな女々しい下心が見えるからです。

と、そのように思っていたのですが、元々「さよならだけが人生だ」の言葉は漢詩から来てて、本来の意味も微妙に違うみたいですね。

分かりやすいキャッチ-な語にパッと飛びついて感情的になって、僕は釣り堀の中の愚鈍な魚か!
と思った次第ですが、そのようなメカニズムは他の多くの場にも見いだせるのではないでしょうか。
ネット上の炎上や、ワイドショーのトピック、隣人の噂話、等々、

私は他人から文脈で理解されたい(見た目だけや、私の内面の一部だけでなく、私というものの流れの総体として理解されたい)と思っているくせに、他人には部分的にしか理解しようとしないという閉鎖的な思考。

まあそんな矛盾する状況は日々よく訪れるので、つい何かに囚われ感情的になったりする時、心の中で「おさかなさん、楽しそう、、」と釣り堀の中にいる自分を想像しながらつぶやいてみるだけでも、自分の愚行が馬鹿らしくなって、立ち止まることができるかもしれん。
前に前にという人間のポジティブさも尊いが、立ち止まってみる、ということもそれ以上に豊か。
たとえそれが、立ち往生だったとしても。






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# by shiitakesentaku | 2018-01-13 08:39 | 2018年1月

新年2

真の大吉を引くものは、世界中のラッキーカラーが自身に集結するがゆえに黒く塗りつぶされてしまうだろう。

今年の初詣は富岡八幡宮に行ってきました。
昨年あった事件の影響で、境内に人はまばら。

神事も狂気も日常からはみ出しているという点で近しいものがあります。
境内の屋台で、その非日常をさらに潤滑よく進めるため人々は酒を飲んでいる。
上気した顔、顔、顔。

聖も俗も人間が勝手に決めたもので、しかしそのような事を決めておかないとやっていけない人間のこころもとなさ。空は何事もなく澄み渡っている。
希望も絶望もないまぜにして、無言の叫びが澄み渡った空にこだまする。
空は一つの鏡であり、人間の嘘っぱちを告発もすれば、明るい未来を反映したりもするのだ。

おみくじを引くと、吉。なんとも当たり障りがなくつまらない。
おみくじなんかにはっきりした答えなど求めていないので、もっとよく分からない目が出てもいいのにね。

吉と凶の合い盛り御膳。ららぽーと大殺界。運勢民営化。おもいやりの吉。おもいやりの凶。決断の末吉。記憶を失くした、大凶、、







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# by shiitakesentaku | 2018-01-07 12:44 | 2018年1月

新年

夜したたか飲んで、朝、誰よりも早く起きる。一人で山に登り日の出を見る。

朝は誰にも邪魔されない絶対時間だ。

削る前のカツオ節のような黒い雲が空をゆっくりと流れ、朝日を浴びている。
カルビを炭火で炙るような感じで、じっと朝日を浴びている。(ちなみに比喩に食べ物が多いのは年末年始、食べて飲んでばかりいるからです)

先行のカツオ節を追いかけるように、ポップコーン状の雲が押し寄せてくる。そしてそれらがまた容赦なくことごとく朝日に炙られていく。
朝から食べ放題のごとく、胸やけで苦しい三が日。

雲々はゆったりと空を流れながらその実、護送している、これからの一日のダイジェストを。
飛行船が広告を空にスクロールしていく、そのやり方で。

今日も一日が始まる。
何でも起こりうるし、何ものも起こらない。
ゆっくりと激しく新年が始まっていく。



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# by shiitakesentaku | 2018-01-02 07:12 | 2018年1月

未来の行く末について色々と考え、煩悶とする朝。

駅前、坂道の上の方から通勤する人たちが、水揚げされた魚介類のようにとめどなく流れてくる。
それに逆らい駅に向かう。
ふと空を見上げた、その瞬間に周囲の喧騒は消え、水しぶきの印象だけが辺りにただよう。

見上げる空は雲一つなく澄んでいて、朝の冷気をひっそりとその身にたたえている。
朝の空は、いつだって始まりであり、いつだって初めてなのだ。
静謐で清楚、その気品はどんな意味の手垢も寄せ付けない。

それは本当に助かる。
意味がないのだ。
そうすべてには意味がない。
あるとしても、それはただの便宜上のことに過ぎないのだ。

名も知らぬ人たちと、一様に電車で運ばれながら、思った以上に自分は、自由だった。













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# by shiitakesentaku | 2017-12-16 12:11 | 2017年12月

どどど

先日、森美術館へ「ドラえもん展」を見にいった。
日曜の夕方にも関わらず、受付にはかなりの行列が出来ていた。
行列に並ぶのは嫌いなので、美術鑑賞などはやめにしてその辺の赤ちょうちんで熱燗をくいっと飲んでやろう、という誘惑と葛藤していると、すぐ後ろに並んでいた若いカップルの男のほうが「こんなに並んでるけど、いったいどんな人が並んでるんだろね。ははは。」としゃべり出した。

お前だよ!
   
まぁ僕もだけど、

そして男は僕の方をチラッと横目で見た。
さえない男が、楽しそうなカップルや観光客の中にあって、さえない顔をして一人でたたずんでいるのが視界に入ったであろう。

なぜだか猛烈に恥ずかしくなってきた。

そこで、彼の現実世界で俺って超満たされてるよねぇ感に、僕は直面し戦うことを選ばずしてあろうことか、直前に並んだ二人の女と距離を近くして、あたかもそのグループの一員なのだ私は、という状況を演出しだした。

なんとも卑俗で自意識がねじ曲がっている。
一歩間違えれば変質者である。

阿呆なカップルの男よりも浅薄である、ということを自らで実践、実証してしまっている。
さびれた郊外のショッピングセンターで、見向きもしないまばらな老人たちの前で、自分でもよくわからない28徳ナイフの実演販売をしている、それは私だ。

思考の中における熱燗の質量はますます増して、山里の温泉郷のごとく、ただ浸ってすべてから解放されたい。

しかしここまで並んだのに列から外れるのももったいない気がして、陰気な森の陰気なおともだちのごとく小さくなりながら、人の流れに身をまかせていたのであった。


人混みの中にあって、架空の荒涼とした地平の彼方から青い猫型ロボットがやってくる。
胸に七つの傷がある。きっと彼は幾多の修羅場を乗り越えてきたのだ。

さあ君、これを使うんだ。自己複製機。
君は一人じゃないよ。

彼はいいやつだ。どんどん僕の分身を作ってくれる。

その数は行列を圧倒し、やがては地球の総人口を上回るだろう。
個と集団の境界をぶちやぶり、どこに行っても、どこに行っても僕がいるのである。

そのうんざりするほど繰り返される僕の中で、それだからこそ僕はどこに行っても、一人なのであった。















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# by shiitakesentaku | 2017-11-25 13:00 | 2017年11月

伊豆へ

先日時間があったので、バイクで伊豆半島を一周してきました。

まず気になった伊東市にある大室山に立ち寄る。
この山は、お椀をうつぶせに置いたような、こんもりとした珍妙な形で、山頂までロープウェイに乗って到達できる。

山頂では、このかつての火山の縁をぐるりと一周することが出来るが、そこから下った噴火口のところに何故かアーチェリー場があって、色々考えてしまう。
こんな所でも金儲けがしたいのか、いや、この圧倒的な自然の力強さの中で、アーチェリーのように人間がコントロール出来る一つの法則を置いておいて、感覚のバランスを保とうとしているのか、等々。

そのことがずっと引っかかっていたので、家に帰って語源の辞書をめくってみると、「室」という漢字は、弓矢を射って、その落ちたところに祖先を祀る霊廟を建てる、という形からなっており、なるほどと思った。

大昔の壮絶な噴火、それは大地からほとばしる激烈な弓矢で、それに射られた場所に山が出来た。
そこでアーチェリーをするのは、気軽にその土地の神様を祀る行為なのだ、と。

山頂をぐるりすると、なにか人の業を表している気がした。人は回り続けるのだ、それも徒歩で!
噴火口を挟んで反対側の縁に、小さく見える人が連なって歩いている様は、シルクロードを行くキャラバンのようにも見える。
そしてあちらから見ると、僕もその遠景のキャラバンの一つなのであろう。ああ、因果、

下山すると、近くにある「まぼろし博覧会」へ。
ここは秘宝館のような、あやしい博物館で、駐車場の前で、ビキニを着て綾波レイのような髪型をしたおっちゃんが旗を振って客引きしている。
なかなか人を選ぶ施設である。

展示内容は、昔のポップな文化をマネキンやグッズで再現しているもので、「風姿花伝」という世阿弥の言葉を思い出した。
人は風のように生きては死に流れていくものだけど、その時々に変わらず花は咲く、といったほどの意味で、いつの時代にも華やかな流行や魅力的な人・物は存在する。

そのようなものへの愛着が、いつまでも花を咲かせたまま存在させ続けよう、と圧倒的な物量で具現化しているところに、とても感嘆しました。

その後、雲見温泉にある烏帽子山に登る。
巨大な岩の上に建った神社で、その景色は圧巻でした。
もののけ姫のだいだらぼっちの上に乗っているような気分で、見下ろす家々に巨大な岩の影が映り、ひき潰しちまえ!といった気分にもなります。
ただ山頂までかなり急な道を40分ほど登らないといけないので、かなり体力を削られます。

この神社は烏帽子山である、いわながのひめのみことを祀っていて、彼女の妹は富士山である、このはなさくやひめのみことであります。
綺麗な妹と違って容姿が醜い姉で、ににぎのみことに二人とも嫁に差し出されたのに、姉だけ帰されて、しかもすでに子供を宿していた、という事を知って、神様、やることやってんじゃんかよぉ、となんとも煮え切らない気持ちになりました。

帰り際に日帰り温泉に入ろうとしたのですが、メジャーどころは人が多いに違いない、とマイナーそうな温泉に入ったのが、それが、間違いでした。

入口では大学生の30名ほどのグループがバーベキューやらなんやらで、ロビーまで騒然としていて、宿の者がどこにも見当たらない。
ようやく、ウォーリーを探せのような感覚で、宿のおばちゃんを見つけたのですが、まったく反応の鈍い感じで、あぁ風呂に入るの、とそっけない調子。
そこで僕はひるんでしまった。まるで歓迎されていない感じで、行く先の不穏な未来を感じ取ってしまったからだ。
かといってもう陽も暮れ始めていて、他の日帰り温泉を探していたら暗くなって帰り道が心細い、ということで決断してその風呂に入ることにした。

風呂場の扉を開く、そこはよくある民宿のような広さの大浴場で、外に出るドアーが奥に付いている。すなわち、露天風呂があるのだ。
さっそく外にでて、海も近いのでオーシャンビューとしゃれこもうじゃないか、と期待に胸を膨らませていると、、、そこから見えるのは、直近の民家のベランダであり、洗濯物であった。

露天風呂であることが、開放感をもたらし、温泉との相乗効果でさらなる癒しをもたらす、といったことは微塵もなく、その開放感が、逆に利用者の首を絞めている、というシステムであった。
えぇい、重要なのは温泉だ、とふっ切れて温泉に勢いよく足を突っ込むと、つるん。
と、盛大にずっこけてしまった。
浴槽の床が、掃除をされていないせいでコケが生えて、ヌルヌルとしていたのだった。
ずばん、と温泉にぶっ倒れ、アクアリウムのようにコケはプカプカと水面を漂う。

私はそっと目を閉じて、彼方まで広がる雄大な太平洋を想像した。
人間には想像力がある、それは人にとって大いなる希望なのだ。

刻一刻と陽は暮れていく。
ここからの帰り道は、まだまだ遠い。

せめても、せめてもこの瞬間だけは、現実を逃避させてくれないか、







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# by shiitakesentaku | 2017-08-11 14:51 | 2017年8月

連綿と続く生命のあり方は、フランチャイズ。それに伴うロイヤリティは死というものでありましょうか。

色んな人がいるけれど、それぞれの人が人としての機能を備えているのがなんとなく不思議で、店舗は違うけれど店の作りが同じコンビニのチェーン店を想像してしまいます。
各店舗のちょっとした工夫はあるけれど、規格が同じである。

そうやって私も人間をやっているけれど、フランチャイズで言うところのロイヤリティはお金で払うのではなく、自らの生命を少しづつ払っていく、すなわち死を積み立てていくのだと思います。

生まれたときからロイヤリティを払い続けている、すなわち死を抱えている。
その両者の引き合いのバランスで人が成り立つのであるなら、生と死それ自体は悲哀でも滑稽でもない。

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# by shiitakesentaku | 2017-08-05 14:54 | 2017年8月

休み明け、女の革靴

パーティーの余韻に浸る間もなく、正月休み明けの朝は鈍器で殴られたように始まる。いや、なぶられるように始まる。
駅に向かう道々に、人は鈍いきしみをたてて流れている。
工業団地の運河は、鉛が流れてるみたいに薄汚れてるね、って比喩る時のような情感で、人は流れていってる、私もまた、流れていってる。

母なる大地にまします駅のプラットホーム。
電車待ちの列に、あまり都会的とは言えないピンクのコートを着た女が、黒くてよく磨かれた皮靴を履いている。
その靴は黒光りに光って、周りの風景をクリアーに映し出している。

想い人の瞳を見つめるとき、相手の瞳に映っている自分自身の姿を見て、なんか自分の姿をあえてみないようにするというか気まずいというか、そんなこと知らねぇよという奴は、ポルノビデオの進行を一時停止したときに、ふと真っ黒になったモニターに映る自分自身の姿を想像すればいい。
愛しているのは相手ではなく、そこに反映した自分自身を愛しているだけなのではないか、という人間関係の矛盾を、改めて突きつけられるような感覚がそこにはあった。

女の靴に映る風景はこの世界と等しいものだろうか。
反映するものでしか知覚できないとしたら、どちらにも虚実はない。
女の革靴に反映する風景を通して、私は永遠に反転する世界に放り込まれる。

中央線・中野駅を境に、地下へと潜る列車の中で、風景のない窓に映る自分の姿が、合わせ鏡のように延々と連なるにまかせて
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# by shiitakesentaku | 2017-01-06 12:06 | 2017年1月

燃え尽きたレーズンパン

ここに日常はなかったのだろうか。

突然、台所にスモークの演出。
さては全米を熱狂させたイリュージョニストの登場か、と思う間もなく思い至り、駆け出した。

無残にも木炭のように黒々と炭化したパンが網の上に横たわっている。
内にまだ熱を残した、無言で絶叫する、漆黒のミイラ。

要するにパンをトーストし過ぎてしまったのでありました。

まるで、若い男に惚れられた老婆が、在りし日の自身の肉体と今の状態を鑑みて、非常に申し訳ない、といった態でベッドに横たわっているような、ためらいと押し殺された期待の、交差。

可食部はどこだ!可食部はどこだ!
と頭脳の中で拍子木を打ち鳴らして、自身を鼓舞した私は、透明な使い捨てポリエチレン手袋を両手にはめて、さっそくこの困難なオペに取り掛かることにしました。

悪性物質がいたる所に転移しているけれど、私達ならきっと大丈夫。私達は共に手を取り合って、様々な困難を乗り越えてきたじゃないか。

言い争って、裸足で夜の街を駆け出したパンもあった。
記念日に偶然同じプレゼントを買って来て、笑いあったパンもあった。

日々のなにげないパンがパンであったと、パンであるあなたは言う。
雨に濡れて崩れ落ちた体で。

あなたの笑顔は、どんな闇をも照らしてくれる、何よりもかけがえのない、光… いえ、パン…


さて、炭化した部分を取り除いてみると、後に残るは粗末な残骸。
魚の皮が嫌いな人の、食後の皿に残る皮を見ているような空疎感。

呆然と台所に立ち尽くす。

悪気があった訳じゃない。あの頃の僕らは、若かったんだ。きっとただ、それだけ。
今はもう会えないけれど、何年後かにはまたあの時みたいに笑って話し合えるよね、、

格子のはまった台所の窓から空を見上げる。
私は自由を奪われた鳥かごの中の鳥のようで、あった








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# by shiitakesentaku | 2017-01-04 08:42 | 2017年1月

帰省。はるかなるイオン。怒れる能勢電鉄。

日本は世界の中の田舎者で、人間は宇宙の中の田舎者です。
あてどもなく彷徨う僕は、何者でしょうか。

実家に帰省するも時間を持て余した挙句、早々に家族の集いから離脱する。

当てにしていた喫茶店には「年始のため休業」の貼り紙。
はっと思い出し、顔を上げると、かなたの山の連なりに連なる赤い看板。
はるかなるイオン。徒歩約、1時間。

しょうがないので歩き出し、頭の中にはとりとめのない想念が浮かんでは消える。

…はるかなる未来。西暦2000年代の地層からは、バキバキに折れた傘の骨が多数出土することでしょう。それを発見した未来人は首をひねるに違いありません。さんざん考察を重ねた末、それらは新種の生物の骨だった、と結論付けるかもしれません。キノコ状の翼を持つ、珍妙な飛行生物・アンブレーラ!
ギャオーン(叫びながら口から怪音波を飛ばす音)
ボガーン(ビル群が怪音波を浴びて爆発する音)

荒廃した田舎の街並み。
打ち捨てられた農具、雑草の茂る駐車場。
何もない街道をひたすらに歩く。

20年前、どうしようもない思春期の頃の僕も、この道をこの様に歩いていた。

何も変わっちゃいない。無為に歩き続けている。人生マシになったと思うなよ、おまえは、永遠に、彷徨い続ける運命なのだ。悲壮なんて言葉は与えられない。翻弄されろ。常に踊らされる、おまえは無為の、道化者なのだ、

かなたにライトアップされたイオンの看板。
今は救いの光の様に、遠景に浮かんでいるけれど、僕を招いても拒んでも、いない、光






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# by shiitakesentaku | 2017-01-02 13:43 | 2017年1月